先輩子育て院生、浜渦さんに聞く〈3〉協力しあわないとやっていけない子どもがいる時というのは、コミュニティが作れる時

 今からおよそ30年前、博士後期時代に育児をなさっていた浜渦辰二教授(文学研究科・臨床哲学研究室)に、お話をうかがいました。最終回の今回は、留学や、学会参加、子どもが少し大きくなってからの地域とのつながりについてです。

(聞き手・文責:かつらのぐち)

〈2〉行って、やる。できたものを、出す。

留学経験について教えてください。

 博士後期課程が終わって、退学して。すぐに私、今度は2年間留学するわけです。最初は2人で一緒にドイツへ行こうという話をしてて。カミさんが日本人学校に応募して、私がドイツ学術交流会の留学へ応募して、うまくいったら…とか言ってたんだけども、日本人学校の募集というのは、どこの国にあたるかが分からないという状態だったんだよね。それで、別々の国になったら大変なことになるよね、ということで。色々調べたんだけども、どうしても難しかったから諦めて、私が1人で行くことになったわけです。

 子どもが、特に私がドイツに行くときに泣いたとかそんな覚えはあんまりないねえ。ま、2歳だったから事態がどういうことだか、なんだかわけが分かんないからね。「しばらく帰って来ない」とか全然分かんないと思う。まあ2年の留学から帰ってきたときには、「この人誰?どこのおじさん?」って感じで見てたよね、やっぱり(笑)。

 ドイツで、子どもを連れて大学へ来ている人がいたかっていうと、それはむしろその後、私が北欧へ行くようになってから見るようになった。北欧では、赤ちゃんをだっこ紐で抱えて大学のなかをうろうろしている子っていうのは結構いた感じ。その当時のドイツではあんまり子どものいる学生というのは見なかったですね。なんせ30年前だからね。ただ、40歳、50歳になっても、大学に来て研究・勉強してる人が多いなとは感じた。というのは、ドイツは今でもまたそうなってるけども、授業料がいらないから。それから、子ども連れの人が、結構大学構内の芝生で遊んでたりするっていう風景は見たんだけども。大学って、町の中にあって、塀もなにもなくて、普通に一般市民もうろうろするようなところで。「大学の中にある公園」と言っても一般の公園と変わらないから、どれが学生なのかっていうのは分からないんだよね。中には大学生のファミリーっていうのはいたのかもしれないけど。

 反対にいま教員になって、数年前、博士後期課程の留学生で、パートナーも留学生であるなか、子どもを産んで博士論文をしあげないといけない人がいたけれども。彼女はなおかつ子どもが色々病気をして、大変だったんですね。それで一時期、親御さんがやってきてしばらくいてくれたり。一旦赤ちゃんを連れて母国の実家に帰っていたりということもあったり。大変な時期というのが色々あったと思う。保育園に、確か預けられなかった。よく最後まで書き上げ、修了して、さいわい母国で就職も決まったけれど。留学生だけじゃなく、頼るべき親がいなくて、むしろ祖父母の代の面倒をみないといけなかったりとか、色々大変な状況で子育てしている人は、留学生と似た立場かもしれないね。


熱を出した時、土日の学会参加などはどのようにされていましたか?

 上の子が2〜3歳にかけては、私が1人でドイツへ行ってて、カミさんが1人で育てて。ただカミさんの実家が車で2時間くらいのとこにあるから、困った時には実家からおじいちゃんおばあちゃんがやってきて、色々面倒見てくれて。特にやっぱり、「子どもが熱出した」とかね。そんな時、保育園じゃ預かってくれないから。ま、私がいたときもそうなんですけどね。熱出したっていうことになったら、私はもう身動きできない状態で。

 病気になった時に預かってくれる病児保育というのがあればいいと思ってたけど、当時はなかった。その後だよね。10年前くらいだったかな、「病児保育の集まり」というのを目にして、「全国でこれくらいの病児保育があります」というパンフレットなんかももらって、「ああ、やっとこういうのができるようになったんだ」と思ったんです。私が子育てしていた当時は、子どもが熱出したという時にどうしても私が行かないといけないようなことがあったりすると、お互いに時間を調整しあって、「午前中は私がみるけども午後はカミさんがみる」とか、その逆とかでなんとかやり過ごした。

 基本的に、私は子どもを学会や研究会に連れて行ったこともないかな。私が出るときは、だいたいカミさんが家にいる時。その調整ができなかったらもう、行かない。そんな感じでしたよね。幸いカミさん小学校の教員だから、土曜日は半日だし日曜日は休みだし、そういう意味で、学会とかで困ったりしたことはあんまりなかったんですよね。

 私は、子育てしながら大学院生をしたといっても、恵まれた状況だろうと思いますよね。扶養者がいて、研究に専念できる環境をつくってもらっていたというのは。冒頭に言った、同じ年に大学院に入った人なんかはやっぱり自分で稼がなくちゃいけなくて、研究職をあきらめていったわけだからね。まあ、あきらめて塾にいっても、わたしよりよっぽど収入も多かったろうし、それはそれで1つの考え方として、よかったのかもしれないけどね。


地域とのつながりはありましたか?

 保育園のときも、エミールなんかは保護者同士のつながりも大切にしていたから、そういう会合にも出席したりしていたんだけど、地域とのつながりをとくに強く感じるようになったのは、子どもが小学校に行くようになってからですね。

 「小学校に行き始める」。そこからが大変なわけです。保育園は5時まで見てくれるでしょ?ところが小学校はもっと早く終わっちゃうわけですよ。私の家は山奥の方、小学校区の一番端っこで、子どもの足で50分くらいかかるところなんです。途中、人通りが少ないところもあったりする。それで「鍵っ子」はとても大変なので、学童保育に1年生の時から行かせるようにしたんです。

 学童保育というのは、今では充実してきているようだけれども、当時はまだ民営だった。全部が民営だから、運営に必要な費用もみんなでお金を出しあい、場所を確保し、指導員の人を確保しなきゃいけない。全部自分たちで、家を探して、人を探して、運営体制をつくって、月々の費用を出しあって、やっていた。お互いやっぱり色々であるなかで、協力しあわないとやっていけないから、そこはコミュニティの助け合いみたいなものが強くはたらいていたような気がするね。費用も結構かかるから、負担を出来るだけ少なくするために、使わない贈答品だとか、手作りのものだとかを持ち寄って、あちこちのバザーにみんなで出品して、交替で売ったりしていました。

 それから、学童保育の運営委員長をたまたま引き受けるようになって。借りていた場所から出て行かないといけなくなったとき、地区の市議会議員のところまで陳情に行ったり。ちょうどその頃ね、次第次第に、学童保育は民間に任されたままから「公設民営化」、つまり場所のほうは学校で確保する、場合によっては、校舎の教室を学童保育用の部屋に使ってもいいです、となった。空き教室が出始めていたころだったんです。指導員の先生も学校で探してもらえることになった。ただし、かかる費用は自分たちで、と。そういう形に移行しはじめたわけです。その動きを加速させて、できれば「公設公営」でやってほしいと市議会までいって訴えかけたりもした。そういう、地域の同じくらいの子どもを抱えた親達の集まりで、結構交流がいろいろあったりして、そういうのはコミュニティという感じがしたね。

 コミュニティというのがない中で、親子が孤立した状態でがんばろうとすると、大変だと思いますね。今は豊中にマンションで1人住まいしてると、とくに大阪はそうかもしれないけども、同じ団地に住んでる人でも、郵便受けの表札出してるのは2割もいないし、家の前の表札も出していない人もいる。お互い、隣の人の姓も知らない、何やってる人かも知らない。隣の人くらいには挨拶しても、階が違う人とはまず言葉もかわさない。そういうネットワークというか繋がりは、子どもとか高齢者「が」作ってくれてるという面があるんじゃないのかな。生産年齢、仕事をしている人たちっていうのは、もうコミュニティみたいなものとほとんど関係ない、みたいな感じですよね。子どもがいる時っていうのは、繋がりを作れるっていう時だから、大切にしたいですね。

(終)

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